こんにちは!管理人のYukiと申します。
当ブログは株式投資を中心に若いうちから『一生使えるお金の知識』を広めていきたいという想いから開設しました。
私のブログを見て『お金持ちになる人』をひとりでも多く増やしたいというのが本音です。
ですが全くお金がない人に「投資をして将来に備えなさい」というのは、あまりに酷だということもわかりました。
私も今では、投資を通じて5,000万円を超える資産を運用するまでになりました。
昨年末、私は結婚式を挙げましたが、それにかかった費用は400万円以上。
さらに今年の1月にはモルディブに新婚旅行に行きましたが、その旅行費用は総額150万円程度でした。
昨年1年でプライベートで500万円以上のお金を使いましたが、1年前と比べても資産額は日本円でそれほど変わらず、5,000万円台をキープできています。
それもひとえに、本業と副業でコツコツとお金を稼ぎながら投資を続けてきた結果だといえます。
ですが、私も投資のスタート時点はほとんどお金なんてない学生でしたし、社会人のスタートは手取り20万円にも満たなかった。
そうです。今の若い世代が直面している状態と私は、なんら変わらない状況でした。
そんな私が、プライベートで年間500万円程度の出費をしても平気なほどの資産を築くまでの道のりを
改めて自己紹介としてまとめたいと思います。
少し長くなりますが、お付き合いいただければ幸いです。
貧しかった少年が、資産形成にたどり着くまで
私は元々関西出身で、1990年に二人きょうだいの末っ子として生まれました。
両親はともに料理人で、バブルが弾ける前の父はホテルの料理長をしており毎月100万円以上稼いでくるような人だったそうです。
また、母の父(私の祖父)は中小企業ながら製造業で従業員を100名以上抱える企業の社長だったそうです。
私が生まれる前の我が家は決して貧乏なんかではなく、どちらかといえば裕福な家庭だったようです。
バブル崩壊で家庭環境がガラリと変わった
ですがバブルの崩壊とともに、我が家の歯車が狂い始めます。
母の実家は、バブル崩壊の直前に億を越える融資を受けて工場を増設していました。
ですが、バブル崩壊によって中小企業である我が家は仕事が激減。
それでも生きていくために必死になって仕事を頑張りすぎた母の父は、私が4歳の頃、心臓発作で倒れ帰らぬ人となリました。
さらに不幸が重なり、祖父が亡くなった直後に阪神大震災で工場が壊滅的な被害を受け、保険だけではカバーできない資産価値の下がった建物だけが残され、母側の家族は莫大な借金を背負ってしまいました。
今思えば、祖父が亡くなった時点で相続を放棄すればよかったのに、祖父の力で裕福な家庭でのんびりと暮らしていた母側の家族は、相続放棄というものがあることすら知らなかったのです。
つまり、無知ゆえに億単位の借金を抱えることになりました。
母側の実家や会社の権利などを売却してもまだ、借金を完済するには至らなかったため、
祖父が遺した借金を返し切ったのは私が小学校の高学年の時、21世紀に入ってからでした。
また、父もバブルの崩壊で勤めていたホテルが倒産。
職を失い、色んな飲食店を転々とするも満足に稼ぐことができず、お酒とギャンブルにハマり
私が小学生に上がってすぐ、蒸発してしまいました。
子供の頃は母と遊んだ記憶がない
そんな家庭環境ですからもちろん常にお金はなく、母は毎日夜遅くまで仕事をしていました。
当時の母は、朝から晩まで1日3つのアルバイト・パートを掛け持ちして私たちきょうだいの生活費を稼いでくれていました。
そのことについては、今でも感謝しきれないくらい感謝しています。ただ、当時は少しさみしかったのも事実です。
常に貧しくて幼少期は母と遊ぶ機会も全くありませんでした。
2人目の子供ということもあってか、僕の幼い頃の写真は学校行事などで撮影されたもの以外にはあまり残っていません。
少しさみしかったのと、母に心配をかけたくないという想い、そして何より、母に振り向いて欲しいという気持ちから、学校の勉強は人並み以上に頑張ってきました。
中学を卒業するまで、学校のテストで90点以下を取ったことはありませんでした。
それくらい、学校の勉強は頑張っていましたし、人より少しはできていました。
ですが、母は100点以外の点数を取った時だけ「今回は100点じゃないんだね」と一言いうだけでした。
正直、母もお金が無い状態が続いていて精神的に子供の教育にリソースを割く余裕がなかったのでしょう。
母と遊んだ記憶もあまり無く、頑張ってもほめて貰った記憶がない僕は、
どんどん内向的でコミュ障な性格になっていきました。
株式投資との出会い
コミュ障な私は、一人で本を読むのが好きな少年でした。特に幼い頃から貧乏なことがコンプレックスだったため、経済系の本や、将来お金持ちになるための勉強になりそうな本はたくさん読みました。
中でも中学生の頃に発売され、株式投資と出会わせてくれた『株式投資の未来』は、初めて本屋さんで見かけて少し目を通したあと、高いながらもすぐに購入しました。
私が『株式投資の未来』を購入する直前、今なお語られる株式市場の大事件『ジェイコム株大量誤発注事件』が、私が株式投資に強い興味を持ったきっかけでした。
一念発起して東京の大学へ進学
またコミュ障で勉強だけできるという僕は、はっきり言って学生時代は友達が多い方ではありませんでした。
それでも数少ない幼なじみが何人かいて、彼らとはずっと仲良くしてきました。
私の友達のAくんは実家が超お金持ちで、専業主婦のお母さんがいて家をキレイに掃除していたため、いつ自宅に遊びに行ってもキレイなお家でした。
まさに私があこがれていた、お金と余裕のある生活がそこにはありました。
Aくんはそれほど成績が良い方ではなかったので、テスト期間が近づくと一緒に勉強して教えてあげたりもしていました。
高校3年生の頃になると、Aくんは塾通いが始まったため、あまり会うことができなくなりました。
私はというと、塾に通うような経済的余裕もありませんでしたが、ヒマを持て余していたため自宅で勉強をしていました。
それでも、元々勉強は得意だったこともあり、東京の大学に合格することができました。
早速母に報告しましたが、母からはひと言
「おめでとう。でも、東京の大学に通っても仕送りはできないよ」
私は仕送りをして欲しかったわけではありません。ただ、頑張った自分をほめて欲しかったのです。
『お金が無い』。ただそれだけで、母はお金がかかりそうな話が耳に入ると拒否反応を示すようになってしまったのです。
ですが私は母の反対を押し切る形で東京に進学し、奨学金で学費を払いながらアルバイトをして生活費を稼ぎ、授業もこなす毎日でした。
一方で、かつて私より勉強ができなかったAくんも東京の有名な私大に合格。
親に塾の費用を出してもらった上、高い学費まで払ってもらい、実家からの仕送りを受けながら4年間、大学生活を満喫し、卒業後には一流の会社に就職しました。
私はこの時、幼少期から感じていたコンプレックスを、格差をハッキリと分からされました。
「満足な教育を受けるにも、お金が無ければダメなんだ」
「結局、世の中お金なんだ」と。
お金持ちを目指して学生時代からネットビジネスと米国株投資を始める
学生をしながらアルバイトもしていましたが、それだけではとてもじゃないがお金持ちになるには程遠いということに薄々気づいていました。
だから私は学業で忙しい中でも、ネットビジネスをはじめました。
今でいう、個人輸入やせどりという基本的なビジネスです。
ですが、ハッキリ言って手間だけが多くて利益率が少なく、個人で続けられるビジネスではないなと感じたためすぐに撤退しました。
そこで目をつけたのが、昔Aくんや他の友人たちと遊んでいたカードゲームのカード。
お小遣いも貰えなかった少年が年に一度だけもらえたお年玉で毎年少しずつ買い集めたカードが、当時の値段でもかなりの値上がりをみせていたのです。
ビジネスというより不用品の処理といった方が正しいですが、大量のカードが学生にとっては大金となる100万円に変わった瞬間でした。
20歳にして初めて手にした100万円。
これをパーっと使い切っては、自分は貧乏なままだ…と思い、どうすればお金を稼ぐことができるのか必死に考えた結果たどり着いたのが、中学生の頃に衝撃を受けた『株式投資』だったのです。
「株式投資をすれば、お金持ちになれるんじゃないか?」
それを思い立ったら居ても立っても居られず、身近に投資したい企業は無いか?と探し始めました。
当時20歳になったばかりで、初めてのクレジットカードに『三井住友VISAカード』を作った私は、三井住友銀行の業績を見てみました。
当時はリーマンショックの影響がまだ強く残っていた頃。
最悪の状況からは回復し始めていたように思いましたが、怖くて三井住友銀行に投資をすることはできませんでした。
「じゃあ、VISAカードのVISAはどうなんだろう?」
ふと疑問を持ってビザという企業の業績を確認したところ、圧倒的にこちらの方が投資冥利があると判断しました。
『株式投資の未来』を読んだことと、個人輸入業の経験から、米国株や米国ドル建の資産に抵抗感がなかった私は、早速手持ちの100万円を米ドルに換金し、当時から米国株を取り扱っていたSBI証券の口座を開いてビザに投資を始めました。
大学卒業を間近に悲劇が…
そうしてアルバイトを続けながら株式投資も始め、順調に大学生活を進んでいた私ですが、元来のコミュ障な性格が災いして、就活はあまり上手くいきませんでした。
それでも学歴と学生時代に取得した簿記の資格などが評価され、なんとか大企業からいくつか内定をいただくことができました。
しかし、就活がひと段落してあとは卒業するだけという時期に、悲劇が起きます。
長年の過労がたたって、母が倒れ入院をしてしまいました。
幸い命に別状はありませんでしたが、当時姉は結婚して実家を出ており、一人暮らしをしていた母をそのまま一人にすることはできないと考え、大学だけは卒業したものの、都内の大企業の内定を蹴って、実家から通える大阪の企業の選考を再度受けることにしました。
ですがその時期に残っている企業の採用枠は、決して良いものではなく、貴重な新卒カードは大阪のブラックな中小企業に使うことになってしまったのです。
中小企業の経理マンとして時間を浪費する日々
そして実家に戻った私は、そのまま中小企業の経理部に配属されました。
そもそも私は「コミュ障な自分には営業なんて無理だろう」と考えていたため経理マンとして働く道しか考えておらず、営業の方が給料はいいものの、自分が心から良いと思っていないものを売り込む企業の営業職には、向いていないと考えています。
しかし、経理部に入ったことで良かったこともありました。
面接中には「多数の特許を持っている優良中小企業」と聞かされていた勤め先が、実態はそうとも言えないことがわかったのです。
当時勤めていた企業は中小企業なので、もちろん非上場企業でした。
なので基本的には、その企業の財務状況を見れるのは、役員と幹部社員、そして経理部門の人間だけでした。
新入社員ながら企業の財務状況を知った私は驚愕しました。
面接で聞いた通り大量の特許を持っていて、毎年数億円のロイヤリティ収入があるのは間違いありませんでした。
しかし、本業である営業活動で大赤字を出しており、せっかくのロイヤリティ収入をすべて食いつぶしているような状況だったのです。
しかもそのロイヤリティはあと数年のうちに無くなり、営業で稼ぐしかない訳ですが、そこがとても弱い。
数年後の未来すら思い描けないような状況だったのです。
さらには、経営者一族によるハラスメントも横行しており、営業職なんて毎日のように経営者一族に詰められていました。
しかもその詰められ方は典型的な昭和の精神論。もちろん社員もついて来ず、決して多くない同期の社員は1年以内に半分以下になりました。
突然のこととはいえ、こんなブラック企業に入社してしまったことが情けなくなり、どれだけやる気があっても評価されない現状に嫌気がさしました。
その時点で私は「投資だけでなく、副業として、能力やスキルや実績で評価され稼げるネットの世界に進もう」と考え始めました。
転職先もブラック企業…
1度目の転職には失敗してしまう
とはいえ、完全に自営業になるのはリスクが高いと思った僕は、ネットで稼げる仕組みを学ぶためにも、インターネットで稼いでいる企業に経理マンとして転職することにしました。
しかし、まだそれほど実績がない若い人を中途採用してくれる会社は多くなく、ベンチャー系のIT企業に転職。
そこでは、毎月100時間を超えるサービス残業が発生し、副業どころか毎日の業務にも追われる日々。
ついにはメンタルをやられてしまい、病院に行って診断書が発行されるまでになってしまいました。
休職中に副業を始める
メンタルを壊してしまった僕は、会社とは色々あったものの診断書を使ってなんとか休職に入ることができました。
はじめの1ヶ月ほどは、回復するために本当にゆっくりと休んでいました。
ですが少し余裕ができて、忘れかけていた「能力やスキルや実績で評価され稼げるネットの世界に進もう」という想いが復活していきました。
副業ではあまり稼げない日々を過ごす
副業で稼ぐために色々考えましたが、結局WEBライターとしてしばらく活動しました。
しかし文字単価が低く、時給換算したら数百円ということもザラにあるため、あまり大きく稼ぐことはできないです。
スキマ時間に月1〜2万円をコツコツ在宅で稼ぐのが目的なら良いですが、副業としては心もとないです。
また、以下のような副業も手を出してみましたが、あまり大きく稼ぐことはできなかったです。
【動画編集・プログラミング】
スキルを磨くという点で、優秀な副業の一つ。
ですが、大きく稼ぐには「案件受注が必要」で結局は時間の切り売りが必要。
案件受注をするための営業スキルもなかったですし、専門スキルを磨く年月も必要なので時間がかかる。
【せどり・転売】
学生時代に一度やったものの、負担が大きすぎるため却下。
また、正直印象も悪いです。
せどりや転売ヤーのせいで、正規の値段で買うことができなかった本物のファンのことを考えると、これで稼ぎ続けるのはベストではありません。
しかも、結局せどりで稼いでる人は、せどりで稼いだ方法を教えるビジネスで大きく稼いでます。
そのほうが在庫リスクも抱えず、利益率も資産性もあって非常に儲かりやすいビジネスモデルだということですね。
副業としてはアフィリエイトやコンテンツビジネスが最強!
自分自身が副業を色々経験してわかったことは、ネットで稼ぐなら結局コンテンツを作って販売したり、優良なコンテンツを紹介して稼ぐビジネスが一番再現性があるということです。
当ブログも記事を書くことで広告収入を得たり、私が良い!と思ったものを紹介することで副収入が発生しています。
紹介によって得た収入は、在庫リスクもなければ利益率も高いです。一度書いた記事は資産として残るので継続して収益を稼ぐことも可能です。
また、これからは私自身の経験を活かして、画面の前の誰かの悩みを解決することができるコンテンツを作って、一人でも多くのお金の悩みを解決できるようになればと考えています。
今の日本において、お金の悩みがない人はほとんどいないでしょうからね。
これまでの人生で培ってきた貧しい経験と、それをバネにお金持ちになることを目指し続けてきた経験をいろんな形で広めていきたいです。
お金に困って人生を左右されるような人を、ひとりでも減らしたい。自分のように辛い思いをした子供を減らしたい。
私は本気でそう考えています。
資産が増え、副業で稼げるとコンプレックスが解消される!
私がブログで毎月数万円〜数十万円稼げるようになったり、株式投資で5,000万円以上の資産を運用するようになって一番良かったと思えるのは、「自分のコンプレックスが解消される」ということです。
幼い頃から抱えていた貧しさコンプレックスも、自分で稼ぐ力があればコンプレックスを感じているヒマはありません。
ネット上で良いと思ったものを人に勧めるという活動は、私のようなコミュ障でも充分にできてしまう。
そればかりか、
「自分は本当に良いと思ったものなら他人に勧められる!」
「本当に勧められる良いものなら、営業だってできる!」
という自信を持つことができました。
その結果、”自分”というコンテンツを売り込むことが上手くなり、転職を4度も繰り返して年収を新卒の頃の3倍程度に増やすことができました。
さらに、副業でも本当に良いと思うものしか勧めないことから信頼を得ることができ、利益をあげ続けることができています。
今では初めて会う人には「絶対コミュ障ではないでしょ笑」と言われるまでに成長することができたのです。
「お金があれば…」を叶えるブログでありたい
改めてハッキリ言いますが「世の中はお金」です。
お金がなければ何もできない。
私はお金があってこそ、愛する人と盛大な結婚式もできました。
他の人が働いている間も1週間のハネムーンに出かけることができました。
愛する人に愛情を伝えるのは言葉も大切ですが、お金をかけることも重要です。
現代人なら誰しもが悩んでいる「お金があれば…」という悩みを解消し、
ブログをみてくださる方を「お金がある状態」にステップアップさせる。
そんな意義のあるブログを作りたいと私は思います。
どんなコンプレックスも、お金を稼げれば解消できるものが多いです。
だから私は、コンプレックスがある人ほど副業と株式投資をやってほしいと考えています。
今回は少し長くなってしまいましたので、また続きはどこかでお話したいと思いますが、今後はそういった情報発信もしていけたらなと考えております。
こんな最後までお読みいただき、ありがとうございました。
今後とも、どうぞよろしくお願いいたします。